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東京「花」散歩 岸本葉子
東京は意外なほど、花の名所が多いのです。四季折々、花が途絶えることがありません。それらの花をもとめて、岸本葉子さんが歩きました。

第2回 堀切菖蒲園

 端午の節句の晩。夕飯をすませてしばらくしてから、手拭いと石鹸箱を持って、歩いて二十分くらいの銭湯へ。
 たまに入りにくる私は、脱衣所の掲示物で、この日に菖蒲湯があると知っていたのです。中学生以下は無料とのこと。
 女湯には、子どもはいませんでした。白と肌色のタイルを貼った洗い場は、左右の壁際にシャワーとカランが一列ずつ、まん中にカランだけが二列。私の学生の頃と違って、空いています。客は、私の他に二人きり。
 体を洗い、浴槽に向かうと、なるほどこれが菖蒲湯か。ひと抱え分ずつ、根元の方を束ねたものが、三束浮いている。
 思ったよりずっと長い。自分の腕と比べるように肩のそばへ持ってきても、葉の先は私の手をゆうに超えて、向こう側。葉のへりは砥ぎ出されたようにまっすぐで、切れ味がよさそう。昔の人が刀を想起したのがわかる。温度計の目盛りは四十五度と、かなり熱湯(あつゆ)なのに、色も形も少しもへたってはおらず、強い葉っぱなのだと思う。
 根元は白く、まこもだけのように太くて、輪切りにして汁の実にできそう。緑の部分と嗅ぎ比べても、特にどちらが強い香りがするというわけでもなく、薬効は葉か茎か、どこにあるのだろうと思いつつ、目の前に浮く菖蒲の束を押したり引き戻りして遊びながら、つかっている。
湯気の上は、体育館のようなドーム型の天井。白いペンキ塗りの板張りで、明るい雰囲気。男湯との仕切りの上の方はあいていて、声が聞こえてくる。父親と子どものようだ。
「今年一年、健康でありますように」
 父親が菖蒲の葉で、子どもの頭を叩くらしい。ぱさぱさと髪に当たる音と、滴の散る音。
「パパが成績のことを言いませんように」
 まだ小学生らしい、高い声とともに、ぱさぱさ。お父さんのまねをしているが、願いごとの趣旨が違うような。
 お父さんが謂れを説明する。菖蒲は昔から、病や災を払う力があると考えられていたこと。形が刀に似ているのと、菖蒲の音が勝負(尚武?)に通じるのとから、男の子の節句に飾ったりお湯に入れたりして、無事な成長を祈る習わしになったこと。多少はしょってるかもしれないけれど、小学生向けの説明としてはとてもよくまとまっていると、隣りで聞いてうなずいている。
 脱衣所に上がれば、父子はちょうど帰るところで、お父さんに促され、番台のおばさんに質問していた。
「菖蒲湯って、女の人の方にもあるんですか」
 なんとすばらしい家庭教育。お父さんの顔が見たくて、服を着るのを急いだけれど、外に出たときは、すでに姿はなく、シャッターの下りた店々と、街灯の薄明りが広がっているだけ。残念。次の花散歩は菖蒲園にしようと、二人が消えてしまったのと入れ替わりのように、そのとき思ったのです。

菖蒲園と言えば堀切。堀切というのが、東京のどこか知らない私も、「江戸の昔から、菖蒲の名所として親しまれ、という枕詞のようなものが頭に入っている。亀戸の藤と同じく、浮世絵も見たことがある。
 わが散歩ガイド『江戸名所花暦』には載っていないけれど、インターネットで調べたら、上野から京成でわずか十四分のところに、堀切菖蒲園なる、そのものの名の駅がある。早咲きから遅咲きへと、六月いっぱいにわたって鑑賞できるそうで、端午の節句のひと月後、出かけていった。
* 広い河川敷を持つ荒川を渡って、ほどなくホームに滑り込み、改札を抜ければ、いきなり菖蒲。紅白の提灯、氏神様の例大祭のとき酒樽の上に張り出されるような「堀切かつしか菖蒲まつり寄附御芳名」の木札、紫と緑の造花。町を挙げての歓迎ムードです。
「堀切菖蒲園」と書いたピンクの看板。通りにはためくのぼり、どっちを向いても菖蒲、菖蒲。江戸時代の菖蒲園が、こんなにも地元に根づいているとは。
 おもちゃ屋さんのショーウインドウのキューピットまで、菖蒲まつりの法被(はっぴ)を着ている。亀有派出所の「両さん」のフィギュアも。同じ葛飾区ですものね。
* 堀切は町工場の伝統もあるそうで、その技を生かした、ブリキ製の菖蒲ストラップも売られていて、心ひかれるけれど、先を急ごう。京成上野駅の東京観光情報センターでもらった(都民の私にも、とても有益)「堀切マップ」によると、菖蒲園への途中に、菖蒲七福神なるものがあるらしく、そこだけは寄っていかなきゃ。
 道は細く、かつすごく複雑そうで、角にさしかかるたび、自分の立っているのと同じ向きに、「堀切マップ」をそのつど回し。
「ええと、この道が斜めについているから、戻る感じで」
 つぶやきつつ行くと、えっ、あれがそう? 三頭身のセメント像が、道に向かって、横一列に並んでいる。

*

 立体的な顔立ちといい、長靴ふうの足元といい、白雪姫に出てくる七人の小人のようだけれど、袋をかつぎ小槌を持った大黒様、鹿を連れた寿老人と、道具類を見れば、まさしく七福神。

*

 表情といいポーズといい、よそにはなかなかなさそうなもの。恵比寿様も、脇の下に鯛を抱え、気をつけの姿勢で立ち、なぜか歯をむき出して笑っている。

*

 このユニークな七福神、謂れは何かと「堀切マップ」の説明を読めば、ここはもともと池だったのを、大正十五年に荒川の放水路を作るために埋めたとき、弁天様を祀ったそう。弁天様は水の神様ですものね。
 七福神を勢揃いさせたのは、比較的新しくて、平成六年。前からいるのは弁天様だけだけれど、堀切の繁栄を祈念して、他の六人(?)も来てもらいましょうとなって、建立したらしい。七福神巡りはふつう、いくつものお寺やお社を回るけれど、一カ所でみんな拝めるのも、ここのよさ?
 今ふうの庶民信仰。堀切がなんだか好きになってきた。
 菖蒲園をめざして再び歩き出し、別れ道に来れば、うーむ、療法の菖蒲園への看板が出ている。どっちからでも行ける?
 この町の道は、ほんとうに複雑で、直角に交わっているところが少ない。五差路だったり、曲がりくねっていたり。堀切という地名がらして、用水路だったのかとも思うけれど、だとしても、もう少しまっすぐに作りそうなもの。
 でも、こういう道は、古くからの町ならではで、どっちを向いても定規で引いたような道がついている新興住宅地には、ない味わい。
 そしてその道に並ぶ商店の、魅力的なこと。魚屋、製麺屋、布団屋、荒物屋、せともの屋、茶舗、襖張り替え、表具師、菓子屋、洋品店、ピアノ教室。こういうなりわいが、まだちゃんと成り立っているのだなあと感動する。こういうところで暮らしていたら、家の中のちょっとした不具合でも、ご近所の電気屋さんなり建具屋さんなりが、すぐに飛んできてくれそう。今ふうの町に住んでいる私は、そういう小さな修繕の類が、いちばん困るのです。
 懐かしいなりわいの店先で、菖蒲の模様のガーゼハンカチや手拭いを売ったり、観光客に道を説明していたり、さりげなく菖蒲まつりを応援しているのが、かわいい。
 瓦屋根の上に、木の柱を組んだ物干し台。入り口で靴を脱ぐ形式の、懐かしいアパートも。玄関に貼られた押し売りお断りの注意書きの中に、獅子舞の強要もお断りとあるのが、建てられた年代を物語る。水色のペンキ塗りの屋根や緑の瓦がおしゃれで、当時としてはなかなかハイカラだったに違いない……などど見とれて、こんなことをしていてはいつまでも菖蒲園にたどり着かない。
* 花の話に、なかなかならなくてすみません。急ぎましょう。
商店街からふつうの家並みの中に入り、なおも進むと、私の頭より低い黒い柵の向こうで、人々が菖蒲を愛でている。
 こんなに道に接近してあるの? 中に入らなくても観賞できてしまうではないの。
 それもそのはずで入園無料。申し訳ないような。
 売店と休憩所の間を抜けると、すぐに菖蒲が咲いている。土を掘って水を張った、ごく浅い池に植えられ、池に渡した橋や、田んぼでいえば畦(あぜ)にあたるところを、人々がそぞろ歩きしつつ眺めている。八橋の上では三脚を使わないでください、との注意書きに、そうだ、日本文化ではこの花に八橋はつきものだったと思い出した。

*

 高校の古典で習いましたね。かきつばたの五文字を詠み込んだ歌。

 唐衣着つつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ

 在原業平の『伊勢物語』に出てくる歌で、東下(あずまくだ)りの途中、八橋というところで乾飯(かれいい)を食べながら詠んだら、涙が流れ、乾飯が水にもどったというエピソードが、たしかについていて、
「乾飯がふやけてるくらい泣く男って何?」
 と生意気盛りの女子だった私は、ふん! と鼻を鳴らしたものだが、業平が詠んで以来、この花と八橋は切っても切り離せないものになったのか、時代が下っても、文芸のみならず尾形光琳の蒔絵(まきえ)や屏風といった美術工芸品にも影響を及ぼしているのだから、伝統ってすごいです。それとも、武士の世の中になっても、美の世界には、平安の貴族文化にモチーフを求める、回帰的な志向があったのでしょうか。
 今、「この花」と微妙にぼかした言い方をしたのは理由があって、私はつい今まで、あやめとかきつばたと花菖蒲と菖蒲をいっしょくたにしていました。
 かきつばたと花菖蒲はアヤメ科に属し、園芸植物として、たくさんの品種が作り出されたのは花菖蒲の方。そして、端午の節句にお風呂に浮かべるのは、花菖蒲の葉ではなく、サトイモ科に属する、まったく別の植物だそうです。園内には、見分け方を説明した看板もあって、その図によると菖蒲の花は、ガマの穂のような、アヤメの仲間とは似ても似つかぬもの。
* 菖蒲湯から、花菖蒲を見にいく散歩を思いついた私は、発想からして混同があったらしい。
 いずれアヤメかかきつばた、とは見分けのつきにくいものの喩えだから、昔の人もとり違えやすかったのだろうけれど、それにしてもまぎらわしい。時代によっても、呼び方が入れ替わったりするそうなので、よけい複雑。
 区別の問題は、今は忘れて、目の前に咲く花菖蒲を愛でよう。私は漠然と、紫の花と思っていたが、紫でも実にいろいろ。赤に近い色、紺に近い色、薄紫、白の筋入り、白に紫の筋入り、白で縁だけが紫のもの、八重、花びらが垂れさがらず、上に向かって縁が少し丸まって咲くもの。園芸植物のすごさである。
 根元には、品種名を記した札が立っていて、品種を作り出すことに込められた、江戸の愛好家たちの情熱のようなものを感じる。

*

 金魚のランチョウとかもそうだけれど、作り出すと、より珍奇なるものを求める方向に行くのか、赤紫の地に白の斑入りの八重の縮れ花弁なんかになると、あまりに人為的で、原種のノハナショウブのような、紫にほんのひと筋黄色の入っただけのものの方に、私は風格を感じるが、品種名と花を身比べはじめると、

*

「なるほど、日に当たらずに育ったかと思われるほど色が白いから、深窓佳人」
「紅姫とか小町笑って、女性の名をつける人って、どんなもんか」
 などと、また別の面白さがわいてくる。
*  来るまでは、菖蒲園というのは群生している美しさがあろうけれど、それ以上の興はわかないのでは、とも思っていた。錦絵、浮世絵の類では、女の人たちがそれはそれは楽しそうにしているが、遊びの少なかった昔の話だろうと。
 でも、来てみれば、それは考え違い。同じ花で、こんなにいろいろの品種ができるなんて、不思議の念にとらわれる。ここだけで二百種類もあるのだそうです。
「宇宙」なんて名づけられたものもあり、
「これは、さすがに現代の品種でしょう、土井さんが宇宙へ行ったのか何かを記念したのでしょう」
 と思ったら、案に相違して、江戸時代の品種だった。白地に青っぽい筋が入った大輪の花で、たしかに空を思わせるが、すごいネーミングセンスである。その頃の人にすでに、宇宙という概念があったとは。
* 花菖蒲は割合い新しい品種が生まれやすい植物ゆえ、古い品種ほど残りにくく、堀切ではそれを保存するようつとめているそう。
「宇宙」は堀切菖蒲園の祖である伊左衛門という人が、花菖蒲の愛好家の旗本から乞い受けた品種のひとつで、江戸時代のいわば「生ける文化財」。
 ここで堀切菖蒲園の歴史をおさらいすると、低湿地で花の栽培に適したここは、江戸に切り花を出荷する、一大生産地だった。
 中でも伊左衛門という農民は、花のうち特に花菖蒲に興味を持ち、いろいろな品種を集めては植えて、繁殖につとめ、その子の代には二百数十種が咲くようになったのを、伊左衛門の家が馬飼草を納める大名の目にとまったのがきっかけで、評判となり、江戸市中に知れわたるに至ったという。天保年間のこと。
『江戸名所花暦』に載っていないわけがわかった。あれは、天保より前の本。藤の亀戸天神や桜の墨堤などに比べて、後発の、新しい名所なのだ。
 大名屋敷の庭でも寺社の境内でもなく、江戸郊外の田園地帯に、一農民が丹精込めて咲かせた花畑というのも、親しみを持たれたのでしょう。
 花菖蒲の品種には、江戸系、肥後系、伊勢系とあって、後二者が一本ずつ鉢植えにして、座敷に置いて鑑賞する、どちらかというと上流の人の趣味だったのに対し、江戸系のは、地面に群生しているようすを眺めるのに向いているそうで、その点でも庶民的。鉢を置けるような畳の間が家になくても、行楽気分で出かけて、誰もが楽しめる花だったのですね。
 江戸系の中でも、花びらが垂れ下がらない品種が、江戸っ子の好みだったという。威勢がよく感じられたのでしょうね。
 赤紫の縁どりのある白い花が受けぎみに咲いている「立田川」を見て、
「これなんかが、そうかなあ」
* そんな興味も加わって、園内を二周してしまった。
 江戸っ子の楽しみを今に伝える堀切菖蒲園だけれど、天保以来ずっと続いてきたわけではないそうです。江戸時代に伊左衛門のところの他もう一軒の菖蒲園が出来、明治後半には五つの園が並び立ち、観光客を集めるのみならず、外国へも花を輸出し、日本の花菖蒲を広く世界に知らしめるも、全盛期は大正までのこと。昭和に入ると、周辺の都市化の影響や、連作障害が出はじめて、衰退。戦争中は、お米の田に変えることを余議なくされ、菖蒲園はいったん断絶。戦争が終わってから、ただひとつの園のみが復興を果たし、都から区へと持ち主を替えながら、存続しているとのこと。そんな歴史を知ると、地元の人が、なんとか残して、盛り立てようと、町を挙げてつとめているのもわかる。
 連作障害と、先ほど書いたように、同じ場所で作り続けると出来が悪くなる性質が、花菖蒲にはあって、それを防ぐために土を入れ替えたり、まめに株分けをしたりと、たいへんな手がかかるそうです。
 梅雨どきの灰色っぽい空のもと、さまざまな紫の花を咲かせている堀切菖蒲園。名高い割に、けっして広くはない。柵のすぐそばまで宅地が迫り、空と花との間を、高速道路の横切るさまに、興ざめする人もいるかもしれないけれど、そんな中で残っているからこそ、けなげでいとしく思えるのでした。

*

番外編 あじさい
 ひと月も、どうかするとそれ以上の長きにわたる梅雨の間、咲き続けるのがあじさい。
 住宅地を歩いていても、花のかたまりの大きさと、鮮やかな色彩とで、目をひきます。
 人の家の庭先、小さな児童公園。こんあにもあちらこちらに植えられているのかと思うほど。しとしと降る雨の中、色とりどりの鞠(まり)が宙に浮かんでいるよう。
* 幼稚園で、青や薄紫の折り紙で四弁の花をいくつも作り、あじさいの形をなすように画用紙に貼りつけた思い出は、多くの人にあるでしょう。クレヨンで葉っぱや枝、葉の上にはカタツムリやカエルを描きそえて。
 雨の日は外で遊べなかったので、そんな工作をしながら、窓の向こうに眺めていた花が羨ましさと、ほんの少しの恨めしさを伴う、独特の美しさをもったものに印象づけられたのかもしれません。
 花びらに見えるのは、ほんとうはそうではなく萼(がく)であること、あれほど大きな玉をなしながら実のできないことも、子どもの頃の私には、神秘でした。
 長崎で、シーボルトの鳴滝塾の跡を訪ねたときのこと。雨の中、傘をさして山の中腹への上がっていくと、石段の上に空き地があり、そこがそうだった。建物はすでになく、正面の奥にシーボルトの胸像があり、後ろは崖。
 空き地のひとところに、あじさいが植わっていた。花の季節ではなかったけれど、木の姿で、それとわかる。
 シーボルト記念館での説明によれば、あじさいは日本固有の植物なので、ヨーロッパに紹介する際、彼の愛する日本人妻の名を冠したという。丸山の遊女で、本名を滝といい、彼はオタキサンと呼んでいたことから、学名の一部にオククサと入れたと。
 その逸話を知ったとき、ふたつのことを、同時に感じた。
 ひとつは、あじさいは外来種ではなかったのかという意外の念。あでやかな咲きようや、古典にはあまり出てこなかったこともあって、中国かヨーロッパから来たものかと思っていた。
もうひとつは、この花と妻を重ね合わせるのは、日本人なら、しないのではと。頭に浮かんだのは、百人一首にある小野小町の歌です。

 花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に

 古文の約束では、花といえば桜を指すことになっているので、この歌に詠まれているのも桜だろうけれど、色は移りにけりな、から、あじさいを連想してしまう。なげめ、とふる、からも。長雨と眺め、降ると経(ふ)るを、それぞれ掛けているという。口語訳すると、
花の色はあせてしまったことです。降り続く長雨を眺め暮らすように、この世のもの思いに、むなしく身をさらし、年月を経るうち、私の容色も衰えてしまいました。
 美人の誉れ高かった小野小町が嘆(たん)ずるのだから、鬼気迫る。
 小野小町装衰絵巻というのを、博物館の展示で見たことがある。衰えて屍となり、変容していくさまを、何の詞(ことば)も付けず、十枚の図に描いたもの。鎌倉時代の作だとか。
 どうして、何のために、こんな絵を描いたのかと思うけれど、たぶん仏教的な背景があるのでしょう。諸行無常の理(ことわり)を、文字を解さぬ庶民にも、教え諭そうという。同様の理を示す、九相詩なるジャンルも、中国や日本にはあるそうです。
 あじさいが、日本に自生の植物で、しかも万葉集にも二種だけだが詠まれているくらい、早くから存在を知られながら、枕草子にも源氏物語にも登場せず、古典文学にそれほど出てこないというのも、この花が諸行無常をあまりにリアルに表してしまうゆえかもしれない。次々と色を変え、最後の方は茶色くなり、玉の形が崩れてもなお、散らずに木にとどまって、朽ち果てていくのを見続けないといけないのが、うつろう、ということに感じやすかった昔の人には、つら過ぎたのでは。
 その花に、妻のイメージを託するのは、そうした心性から自由で、純粋に花の美しさを愛でることのできる人ならではだろうと、シーボルトのオタクサを見て、思ったのです。
 ちょっとさびしいことを書いてしまったけれど、そうは言ってもあじさいは、湿りがちな梅雨どきの風景に、目のさめるような青さをそえてくれる。雨の季節の花なのに、漢字で書くと紫陽花。陽の字が付くのが不思議だったけれど、中国詩にでてくる別の花の名を、平安時代の人が、あてたとか。陽が照らない季節に咲くのに、という矛盾を気にするより、紫という色の方が、印象が強かったのでしょう。
 日本語の名の由来は、アジは集まる、サイは真と藍。青い花が集まって咲くようすからと、牧野富太郎先生に説明されていて、私の中でも、青がこの花の本然です。
 西洋あじさいと呼ばれるものには赤っぽい色が多いけれど、それとても、西洋にもともとあったものではなく、日本から中国を経て、ヨーロッパに渡ってから品種改良が進んだそう。土が酸性かアルカリ性かによっても、色は変わるらしい。
* 堀切菖蒲園の帰り、住宅地の中を通っている、あじさいの並木ともいうべきところがありました。細い舗道の両側にあじさいが植えられ、今しも花盛り。道がゆるやかに曲がっているので、足を前に運ぶたびに、刻々と違う色の花が現れる。
 白、水色、赤紫、ピンク。こんなにも多種多様なあじさいが、一堂に会しているのを見るのは、はじめてだ。
 あじさいにも八重があるんですね。運動会のくす玉のようだったり、萼の小さなものは、線香花火のようだったりして、かわいい。
*
 花菖蒲を見に来た人たちも、きれい、きれいと口ぐちに誉め、写真を撮っている。並木の終わりには、黒い油性のペンで手書きをした貼り紙が。「皆様、ようこそおいでくださいました。今日はあじさい、皆様に逢えて嬉しくて精一杯の笑顔でお迎えさせて頂いています。やさしく接して思い出に沢山お写真を納めていただけましたら幸いです。育て親より」
 育てている人がいるのだ。
 並木を少し戻ってみれば、木のかげに体をかがめて掃除しているご婦人が。このかたが、育ての親?
 声をかけると、そうでした。両側を合わせると三百メートルに及ぶあじさいを、ひとりで植えて、世話をしていると語る足元には、合成樹脂のごみ箱がある。ちぎれた葉や、色の落ちた花が入っている。
 そう、何も木の上で色あせていくにまかせずとも、摘むなり剪定するなり、人の手を入れればいいのですね。
 花が終わると、枝を切り詰める作業が待っていて、これだけの本数になるとたいへんだけれど、こうして皆さんに喜んでいただけるから続けているとおっしゃいます。あじさい通りと、誰からともなく呼ぶようになり、毎年訪ねてくる人もいるそう。
 思いがけない名所と出会えるのも、散歩の楽しみのひとつです。

*

著者プロフィール
岸本葉子(きしもと・ようこ)
エッセイスト。1961年鎌倉市生まれ。東京大学教養学部卒業。日常生活や旅をテーマとしたエッセイで多くの女性の共感を得てきた。2003年に発表した自らのがん闘病記『がんから始まる』が大きな反響を呼んだ。著書は『週末ゆる散歩』『ゆる気持ちいい暮らし術』『自問自答』など多数ある。小社より『ちょっと古びたものが好き』が好評発売中。

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